歴史の教科書から「鎖国」という文字が無くなるけどそもそも閉じてもないような・・・
こんにちは。
どうやら小学校・中学校の歴史の教科書から「鎖国」という文字が消えるそうですね。
しかし、以前から私は疑問に思っていたのですが、江戸時代の頃は北海道は「蝦夷(アイヌ)」、沖縄県は「琉球王国」なのだから「海外」との交流はしていたのではないかと思っていた次第です。
そこで今回はそのような考え方をしている文献はないものか、そのあたりの詳細について調べてみようと思います。
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オランダ・清を「通商国」(国交を結ばないものの貿易は承認)とした。朝鮮・琉球を「通信国」(国交を結び、貿易も行う)とし、朝鮮からの通信使、琉球からの慶賀使・謝恩使を迎えた。
オランダと清は長崎貿易で有名ですが、朝鮮は対馬藩、琉球は薩摩藩、アイヌは松前藩と交流します。
オランダ・清は有名なのでここでは割愛し、まずは「外国」というイメージが強い「朝鮮」との外交を整理しましょう。
・朝鮮との外交
通信とは「信」すなわち「よしみ」を交わすという意味である。将軍の交代や後継ぎの誕生の時、日本側の要請により使いが送られたのである。
早速「鎖国」という言葉が何なのかわからなくなる朝鮮との外交関係が登場(笑)。
「朝鮮通信使」は室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本に送られた外交使節団のことです。
ただ、「外交」には違いないのですが、江戸時代の朝鮮通信使は全部で12回で、貿易などをイメージする外交とはまた別物のような印象です。
はじめの頃は朝鮮から送られてきた使節は500人前後でしたが、中国大陸からの侵略(朝鮮)や歓迎にかかる費用で藩の財政が圧迫される(対馬藩)などの問題から回を重ねるごとに簡素なものになっていきます。
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「朝鮮通信使」を例にして浮かび上がるのが「アイヌ・琉球は日本(幕府)と『貿易』を行っていたのか」という点が気になってきます。
・アイヌ
まずは「アイヌ」からみていきましょう。
「シャクシャインの戦い(1669)」で有名な松前藩とアイヌの関係。
アイヌが和人の支配下に置かれるようになった歴史はもっと古く、1485年に樺太アイヌの首領が松前氏の祖である武田信広の配下に就いたことが始まりだと思われます。
「北海道戦国史と松前氏」(洋泉社)の著者、新藤透・山形県立米沢女子短大准教授(日本近世史)は言う。新藤准教授が唱えるのは、下北半島にある蠣崎(かきざき)の土豪出身という説だ。 「15世紀半ば、下北半島に蠣崎蔵人信純(くろうどのぶすみ)という武将がいたことが後世の史料に出てきます。彼は南部氏に反抗して立ち上がるのですが、長禄元(1457)年、敗れてしまいます。そこで蝦夷地に逃れ、武田信広となったと考えているんです」
出典:【渡部裕明の奇人礼讃】武田信広(上)戦国時代に北海道を制覇した「謎の武将」(2/3ページ) - 産経WEST
しかし、武田信広は「コシャマインの戦い」をはじめ、蠣崎氏の栄華に関わる重要な人物ですが実態はアイヌ側から半ば放置されていた様子でもあります。
江戸時代におけるアイヌ支配の歴史で最初のできごとは1604年に蠣崎氏改め松前氏となった松前藩が江戸幕府の許可を得て交易独占を可能にしたことです。
当時の江戸幕府は財政的にいきずまっており、蝦夷地での交易の莫大な利益に目を付けたのが、老中田沼意次でした。幕府は蝦夷地に調査隊を派遣しました。 ただこの調査で、飛騨屋の経営も調査され、帳簿にも記入しないどんぶり勘定であることがわかり、交易だけでなく、現地でアイヌを使ってかなり強制的に働かせていることも明らかになりました。しかし、途中で田沼が失脚していまい、幕府は蝦夷地に対して何の政策も行いませんでした。
出典:郷土の歴史
ここまで調べてみた感じだとアイヌは一種の「植民地」として扱われていたように思われます。
しかし、松前藩は「山丹交易」というアイヌ民族を介して大陸との交易を行っていたことからアイヌは独自の国として外交を行っていることが証明できるため事実上外交を行っていたといっても過言ではないように思います。
・琉球王国
琉球に関しては長々とご口舌を立てるまでもなく「中継貿易」のメッカとして有名なためザックリと。
1609年に薩摩藩は琉球王国を攻撃し、当時の琉球の支配者である尚寧王が和睦を申し出ます。
同時期に中国とも同じような関係を結んでいたため二重の支配下に置かれますが、独特の文化と共に独立国家として発展していきます。
実はあのペリー提督も琉球に開国を求めに首里城に入港しており、「琉米修好通商条約」を締結しています。
同時期に日本とアメリカは「日米修好通商条約」を結んでおり、日本と琉球は別の国であることは火を見るよりも明らかでしょう。
最後に
今回の改正は1970年代後半ごろから日本史学者の間で唱えられていた「四つの口」という考え方が根底にはあるようです。
四つの口」という概念は、伝統的な「鎖国」観の閉ざされたイメージを是正するために、30年余り前に私が提起したものだが、今では歴史の教科書にごく普通に登場する用語の1つになっている。そして、「四つの口」が前提になってくると、「鎖国」として語られてきた近世の国際関係の実態や、いわゆる「鎖国」のもとで海外に向けて開かれていた唯一の窓口とされてきた長崎についても、その実態や言説も含めて、改めて見直すことが必要になってくる。私がここ35年近く続けてきたのは、「四つの口」を前提とした近世国際関係史の脱構築の作業だった。1983年に従来の「鎖国」概念に代えて、「海禁・華夷秩序」の対概念を、さらに最近では「鎖国・開国」言説論を提唱しているのも、その一環である。
様々な文献の研究が進み、歴史が覆されることが多いですが馴染みのある言葉が消えることには少しもの悲しさも感じます。
しかし、改めて文献を読んでいくと「鎖国」という言葉の違和感は拭えません。
これからもさらに歴史の研究が進んで面白い歴史が見つかるとより楽しめそうだなと思うので歴史研究家の方々には頑張っていただきたいものです。
追記(2017/02/20)
こういう書き方だと「北海道と沖縄は日本ではない」と取られてしまいそうなので後日この辺りを再び調べてこようと思います。